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高松地方裁判所 昭和35年(わ)256号 判決 1964年4月15日

被告人 中島一雄

昭一一・一一・四生 国鉄職員

主文

被告人は無罪。

理由

第一、公訴事実と罪名罰条。

本件公訴事実は、

被告人は、高松市新湊町所在旧国鉄高松駅舎内国鉄大阪電気工事局岡山信号通信工事区高松助役詰所に資材係として勤務し、信号、通信工事用資材の倉庫への出し入れ、整理保管等の業務に従事するかたわら同倉庫の事実上の火気取扱い責任者をしていたものであるところ、昭和三五年八月二〇日午後一時前頃、同詰所臨時雇員佐々木秀征、同片岡信夫の両名が木箱入りセレン整流器一個を同詰所北側資材倉庫に格納するに際し、同倉庫内に入り納品の確認をすると共に資材格納についての指図をしようとしたが、同倉庫は防火上禁煙場所に指定されていた上倉庫入口附近には右整流器を梱包していた木綿が散乱していたのであるから同倉庫に立ち入る者としては火気の取扱には充分注意し火災の発生を未然に防止すべき注意義務があるに拘らず不注意にもこれを怠り喫煙しながら漫然同倉庫内に立ち入り、その吸殻の消火をなさずして火のついたまま前記木綿中に投棄した重大な過失によりその直後頃これが右木綿と共に前記空木箱に詰め込まれて同倉庫西南隅にある同種木箱一〇個位の上に積み重ねられたところ、同日午後一時一〇分過頃右木箱内で前記吹殻より木綿に引火し、これより火を発して木箱に燃え移り同日午後一時二〇分頃より午後四時頃までの間に順次同倉庫及び国鉄員等の現住する旧国鉄高松駅、国鉄四国支社等国鉄関係の建造物及び非現住建造物合計五三棟約一一、三〇〇平方米及び同市西の丸町一一番地旅館さざ波こと太田シズヱ方外六一世帯の現住する家屋四〇棟約三、二七一平方米を焼燬したものである

というもので、罪名及び罰条は、

重過失失火、刑法第一一六条第一項、第一一七条の二

である。

第二、本件火災の概要。

昭和三五年八月二〇日午後一時過頃、高松市新湊町所在の国鉄旧高松駅(以下単に旧高松駅と呼ぶ。)構出より出火、(出火時刻、出火場所については後にくわしく認定する。)必死の消火作業も空しく火勢仲々に衰えず、同駅舎を全焼、更に附近の旅館、商店、事務所、一般住宅えと燃えひろがり、午後四時頃に至つてようやく鎮火した。

この火災による損害は、国鉄関係では、旧高松駅、国鉄四国支社事務所を全焼したのをはじめ、建物全焼四二棟、半焼三棟、一部損壊三棟、被災面積約一一、七〇〇平方米、損害約四億四千万円、国鉄関係以外では旅館、事務所、住宅等の被災戸数五六戸、約三九〇〇平方米、被災者二六一名、損害約一億三千万円にのぼり、幸い死者はなかつたものの、稀に見る大火であつた。

右の事実は、昭和三五年八月二四日付司法警察員浦野正明外四名作成の検証並びに実況見分調書(中略)等によつてこれを認める。

第三、出火時刻と出火地点。

旧高松駅階下西端にあつた同駅貨物室勤務の国鉄職員斉藤正次郎は、右火災当日の午後一時過頃、職員家族運賃割引証を発行してもらうため新高松駅助役室に行くべく右貨物室から旧高松駅ホームに出たところ、折から蒸汽機関車にけん引された上り旅客列車が新高松駅二番ホーム北側線路(四番線)に入構しつつあるのを認めた。この列車は、午後一時八分着第二二列車であつたが、当日は遅れて午後一時一〇分新高松駅に到着したものであつた。

右斉藤は、右貨物室から徒歩で旧高松駅ホーム上を東進し、同ホーム上に建つていた国鉄大阪電気工事局岡山信号通信工事区高松駅助役詰所(以下大電工詰所と略称する。)附属倉庫と、その南側にあつた旧高松駅々舎との間の通路をとおり、約四、五分を要して新高松駅助役室に着き、同所で、一、二分のうちに用務を終え、直ちに往路と同じ経路で引きかへす途中、大電工附属倉庫南側附近に来たとき、同倉庫南出入口の扉の隙間から、倉庫内の火が赤く見え、倉庫西南隅附近から煙が外に流れ出ているのを認めたので、直ちに右倉庫南側の大電工詰所にいた同詰所臨時雇傭員片岡信夫に急を知らせ、同人と共に右倉庫南出入口の施錠を外し扉を開いてみると、同倉庫内西南隅に積み重ねてあつた空木箱附近が真赤に燃えていたので、右片岡は同詰所の消火器にて、又斉藤は貨物室に走り帰つて他の職員の応援を求め、それぞれ必死に消火につとめたが、果しえずついに本件火災に至つた。

一方、国鉄四国支社高松電力区高松配電室に勤務中の電気係西井勝一は、午後一時二四分頃駅構内の機関車の非常警笛により出火を知り、同二八分電力区長命令により、旧高松駅舎を含む構内えの送電回路である五〇一(東回線)のオイルスイツチを開放し、同駅舎えの送電を停止した。

右によれば、本件火災の出火時刻は、八月二〇日午後一時二〇分ないし二三分頃であつて、出火地点は大電工詰所附属倉庫内西南隅附近と認められる。

右の事実は、第一五回公判調書中の証人斉藤正次郎の供述記載(中略)によりこれを認める。

被告人は当公判廷において、出火を知つた際、消火に馳けつけていた人達が、「地方本部(国鉄労組四国地方本部を指すと解される。司法警察員浦野正明作成の検証調書添附第三図に労組事務所と表示されている個所は、同調書によれば国鉄労組香川支部事務所と解せられ、同所ではなく、山名克己の司法巡査に対する昭和三五年八月二〇日付供述調書添付図面に組合地方本部と表示されている個所であらう。)が火事じや」と叫んでいた旨述べ、又第一二回公判調書中の証人山名克己の供述記載部分及び同人の昭和三五年八月二〇日付司法巡査に対する供述調書によると火元を「信号通信課(大電工詰所の二階に当る。)の西隣り(電力課を指す)じや」と報告していた国鉄職員がいた旨述べており、それらの地方本部ないし電力課がいずれも大電工附属倉庫西南隅に近接していたことは認められるけれども、本件火災の出火地点と認めるに足る証拠はなく、又他に前記認定を左右するに足る適切な証拠はなんら存しない。

第四、大電工詰所附属倉庫の構造と格納資材。

出火地点と認められる右倉庫は、昭和三五年七月二二日四鉄工業株式会社が請負い着工し、同年八月一三日完成、同月一五日国鉄四国支社高松工事区長の検査を経て即日引渡された竣工間もない建物であつて、旧高松駅々舎内の待合室北側ホーム上に、同駅一番ホームの上屋をそのまま屋根に利用していた。この屋根は厚さ約六分、巾約五寸の杉板を打ちつけ、その上に油性ペンキを塗り、その上に更に波型鉄板を打ちつけこれにコールタールを塗つてあつた。倉庫の大きさは東西約二五米、南北約六米、面積約一四一平方米で、高さは南側五、六八米、北側三、八八米あり、この屋根に届くまで周囲を厚さ約四分、巾約六寸の杉板で囲い、板と板の継目には外側から厚さ約四分、巾約一寸二分の杉の目板を打ちつけ、又この板囲いには内側から床より高さ約一、八米附近まで一面に亜鉛引平鉄板を張りめぐらし、隙間をなくしてあつた。倉庫内部は東から一一米の床面に厚さ七分の杉板を張り、それより西は在来のコンクリート・ホームをそのまま使用していた。出入口は西側と南側とに各一個所あり、双方とも扉は巾約二米、高さ約二、一米の板戸を用い、両引戸となつていたが、西出入口は内部より施錠して平常全く使用せず、南出入口のみを利用しており、又窓の設備は全くなかつた。従つて、南出入口に外部から施錠すれば、同倉庫は完全に密閉され、立入ることは全く不可能であつた。

倉庫内には、西北隅に二〇〇立用大型空ドラム罐二個、二〇立用小型空ドラム罐一個が、東側板張床の上に電線約一万米、小型セレン整流器二〇個、大型セレン整流器一個、ジヤツクボツクス二〇個、軌道継電器二個、電話器五個が北側中央附近に台秤一個が、更に西南隅に各種器材梱包用の藁、もくめん、ハトロン紙等の詰まつた木箱約一二、三個が、それぞれ格納されていた外、消火器が一個備えられていた。

そして、西南隅の木箱は、南側の壁沿いに二段に積み重ねて横長に並べてあり、又大型ドラム罐は完全にガソリンを抜いてあり、小型ドラム罐も底の方にガソリンの残滓が一立位入つていただけで且ついずれの罐も完全に蓋をしてあつた。

以上の事実は、第五回公判調書中の証人佐々木秀征の供述記載部分(中略)によりこれを認める。

第五、出火当日の右倉庫えの出入り状況。

大電工詰所は、昭和三五年七月二日高松駅改良工事と単線自動工事のため開設され、助役山名克己(当時三二歳)、技術係長崎邦夫(当時二六歳)、上山勝(当時三五歳)、保安係平田秀雄(当時三八歳)、臨時雇傭員片岡信夫(当時二二歳)、佐々木秀征(当時二〇歳)と資材係の被告人の計七名が勤務し、事務所は旧高松駅出札室の南北約一二、七米の部屋のうち南側約九米余の部分をこれに充て、北側約三米余の空室との間には出入口のある仕切壁があり、この空室の北出入口を出ると約二米巾の通路を隔てて大電工詰所附属倉庫の南出入口となつていた。

昭和三五年八月二〇日前記七名の職員は、概ね午前八時半頃より午前九時過頃にかけて逐次出勤し、右事務所で各自執務していたが、午前九時過頃請負業者新生電業株式会社の田中岩四郎外従業員五、六名が工事資材を受取りに来たので、被告人は、これを案内して附属倉庫に入り、軌道継電器四八個を支給して倉庫外に搬出させた上、直ちに倉庫に施錠して事務室に帰つたのち引き続き執務していた。午前一〇時三〇分ないし午前一一時頃、山名助役はじめ長崎、上山、平田の四職員は高松駅構内の工事現場に出かけ、そのまゝ事務室には帰室しなかつた。残された佐々木、片岡、被告人の三名は、いずれも午前一二時前後頃まで事務室でトレース作業に従事していた。

その後、出火の知らせを受けた片岡信夫が、附属倉庫南出入口の施錠を外して同倉庫内に立入つたことは既に、第三、において認定のとおりであるが、それまでの間において、新高松駅から資材であるセレン整流器を受け取つて帰つた佐々木秀征が、右資材到着の旨を被告人に報告し、片岡に右倉庫の施錠を外して貰つて、右資材を格納した際、被告人、片岡、佐々木の三名が右倉庫に立入り、右資材を格納後、被告人、佐々木、片岡の順に、それぞれ多少の時間をおいて全員右倉庫を退出し、最後の片岡は再び右倉庫に施錠の上帰室したが、同人は被告人から右セレン整流器の整理カードを棚に取りつけてくるようにいわれ、右カードを持つて再び右倉庫に入り、所用を終えて施錠の上事務室に戻つたことがあつた。

右のような状況であつて、本件出火当日の朝から出火時までの間において、右附属倉庫に立ち入つたのは、午前九時過頃、被告人が新生電業関係者と共に一回、その後セレン整流器が到着後の時点において、被告人、佐々木、片岡の三名が一回、次いで片岡が一回、の計三回のみであることが認められる。これを疑わしめる証拠は全くない。

以上の事実は、被告人の当公廷における供述(中略)によりこれを認める。

第六、出火原因その一、

以上認定の第三ないし第五の事実を前提として、検察官主張の出火原因以外の、他の出火原因の存否を先づ検討する。

一、電気事故の有無について。

これについては、既に認定した大電工詰所附属倉庫西南隅附近の出火地点を中心に、附近の電気配線関係について検討しなければならないが、先づ右倉庫えの電気配線関係は、昭和三五年八月三日日本電設工業株式会社がその工事を請負い着工し、同月八日完成、高松電力区技術助役山上福美の竣工検査を経て引き渡されたもので、その幹線は、旧高松駅舎事務室入口の外側で、右附属倉庫西南隅から約二米南の地点に従来から設置されていた木製分電盤の遊休回線から一五アンペアのヒユーズを介して分岐され、右倉庫南側軒下を伝い、この幹線から同倉庫内へ五個所(一〇〇ワツト四個、六〇ワツト一個)電線を引き込んで電燈設備が設けられており、そのうち一〇〇ワツト四個の点滅は同倉庫南出入口外側に取りつけられた引紐開閉器(プルスイツチ)で行ない、このスイツチには五アンペアのヒユーズが入れてあつた。そして倉庫の屋根は前記のようにホーム上屋をそのまま利用し、野地板の上に波型鉄板を張つたものであるが、これらは接地されておらず、又倉庫自体は木造でメタルラス等金属造営材を使用せず、前記分電盤より倉庫南面までVAケーブル(絶縁された二本線を一本にまとめ更にビニール被覆したもの)二ミリ二心線を梁づたいに配線し、倉庫板壁のところからこれをビニール二ミリ線二本に分結し、倉庫南面外側を高さ約三米で西より東へ碍子引工事とし、これより分岐して碍管を用いて倉庫板壁を貫通させ、倉庫内梁の両側を互に線間を離隔して碍子引工事をしているが、五燈の電球線のうち一〇〇ワツト四燈は直付器具で堅固に取りつけられてあつたし、他の六〇ワツト一燈は南出入口内側附近の梁にローゼツトを取りつけコードで下げてキーソケツトをつけてあつたが、この線は前記プルスイツチをとおらず、キーソケツトにより点滅することになつており、出火当時このキーは開放されていて、コードに短絡もなかつたのである。

しかして、本件の火災当時、前記木製分電盤の右倉庫への分岐開閉器は投入されて通電状態にあつたが、右に述べたような配線状態その他から電気事故があつたとは到底考えられない。

次に、右倉庫の屋根は、旧高松駅ホーム上屋をそのまま利用していた関係上、この屋根下には従来から配線されていた四本の電線が通つていたので、配線のあるところは壁板を切り抜いて倉庫が建てられていた。これらの電線のうち

イ、旧跨線橋用照明幹線は、本件火災前より、分電盤から取り外されていて、全く通電していなかつた。

ロ、ホーム照明用電線は、旧高松駅一番ホーム照明のため、前記木製分電盤から引かれ、同ホーム上屋に配線され、貨物係において点滅を管理していたものであるが、本件火災の前日の夕刻頃点燈し、火災当日の午前六時頃、右分電盤のスイツチを切つて消燈され、その後は通電していなかつた。

ハ、外燈操作用電線は、高松電力区配電室より引かれていたが、火災当日の午前八時三〇分頃、既に右配電室において切られており、その後全く通電していなかつた。

ニ、二吋鉄管に納められた三、〇〇〇ボルト高圧電線は、高松電力区配電室より引かれており、本件出火時刻には通電していたのであるが、この高圧線に万一漏電、短絡等の異常があつた場合は、配電室配電盤に設けられた油入遮断器が自動的に作用して電流が切れるようになつており、前記第三、中で認定したように出火後の午後一時二八分頃電力区長命令により係員西井勝一がスイツチを切るまで、右電線にはなんらの異常も認められなかつた。

ことがそれぞれ認められるのである。従つて、倉庫の屋根下を通つていた四本の電線による電気事故の発生も、全く考えることはできない。

以上の事実は、第七回公判調書中の証人辻本静正(中略)によりこれを認める。

証人片岡信夫は、第六回公判において、同人が斉藤正次郎と共に倉庫に入つたところ、屋根下の電線の被覆が焼けて三糎位火焔の中に垂れ下つていたから、漏電が出火原因ではなからうかと思つた旨述べているのであるが、その証言は寸時の間の目撃であるためあいまいであることは已むを得ないとして、仮にその状況が真実であつたとしても電線の被覆が火焔により焼損することもあり得ることであり、且つ右の認定に照らしそれが短絡ないし漏電等の電気事故を裏書するものであるとは言い難い。又鑑定人鈴木喜彦は、その鑑定書において、押収の鉄製分電盤と木製分電盤分岐用開閉器(証第一、二号)を資料として検討するも、これによつて本件火災が漏電によるものであるかどうかは決しがたいとしており、その意見が前認定に反するものでないことは明らかであらう。

更に証人山名克己は、第一二回公判において、大電工詰所の螢光灯が、本件火災の四、五日ないし一週間位前から時々自然に消えては又つくことが有つた旨証言しているが、これによつて本件火災に関連する配線上の不備その他の電気事故を推測することはできず、他に右証言にそう証拠も存しない。

ただ、辻本静正外一名作成の前掲旧高松駅火災事件にかかる電気関係調査報告書中には、「前記木製分電盤内に六個の分岐開閉器があり、本件火災当時使用されていたのはそのうち二個で、その一個のみ開閉部材が投入されており、これが大電工詰所及びその附属金庫へ給電するためのもので、他の開閉部材が投入されていない一個は、下り終夜回路(配線図よりして前記ロ、のホーム照明用電線と認められる。)用のものであるが、この下り終夜回路用分岐開閉器への分岐の途中から更に他の使用停止中の分岐開閉器へ分岐するための接続部二個所があり、このうちそれぞれ右側に位置する分岐部において著しい侵蝕が観られ、その部位より約九センチ電源側にさかのぼる位置に雨滴状の熔融が一個認められる、」とあり、その侵蝕の成因は不明であるが、(第七回公判調書中の証人辻本静正の供述記載部分)ともかく「侵蝕が発熱を伴いつつ徐々に発達し、電線を熔融したものと判断される」とし、「これは火災の原因となる可能性が十分あり」「火災危険の要素となりつつあつた」とされていて、一見本件火災と関係あるかのような現象が存したことがうかがえるけれども、それが火災に至りうる熱を生ずるには、右下り終夜回路が通電している場合でなければならないこと右報告書が指摘するとおりであり、しかもその下り終夜回路は本件火災の朝より通電していなかつたこと既に認定のとおりであるから、これら電線の侵蝕、熔融を本件火災と結びつけることはできないと言わなければならないこと当然である。(尚この熔融痕は、鈴木喜彦鑑定人の鑑定書中にも指摘されており、その成因の判定は不能とされている。)

最後に、前記木製分電盤以外の旧高松駅舎内の分電盤及び、これら分電盤から給源に至る回路において格別の異常のなかつたことは、前掲報告書によつて認めることができる。

以上によつて、本件出火当時大電工詰所附属倉庫内及びその周辺の電気配線に、本件火災に関連ありと認められる異常現象は発生していなかつたと言う外はない。

二、自然発火の有無について。

大電工詰所附属倉庫内に格納されていた資材は、既に第四において認定したとおりであるが、その可燃性物質は倉庫の壁板、床板等の木質部の外、木箱、もくめん、クラフト紙、ガソリン約一立等であるが、寺島昌訓作成の昭和三五年九月二六日付、及び安村二郎作成の、各鑑定書によれば、もくめんやハトロン紙はその化学的性質および発火点が高いという事実から、本件火災当日のような気象条件下(辻本静正外一名の鑑定書添付の高松地方気象台毎時観測報告によると八月二〇日正午に気温三一、八度C、湿度五九%、午後一時に気温三二、六度C、湿度五六%であり、最少湿度は午後〇時三五分に四七%を示し、実効湿度は七七%であつた。)では自然発火することはあり得ず、又ドラム缶入りのガソリンもそれが密栓されていたと緩栓されていたとを問わず、その発火点が三〇〇度以上であるから右同様の気象条件下では自然発火は考えられないということであり、本件倉庫内が前記のような構造であつたことから外界より一段と室温が上昇していたであらうことを考慮してもなお、本件火災が倉庫内の物質による自然発火に原因するものとは到底考える余地がない。

もつとも右安村鑑定人は、もくめんや紙類が油類等に汚染されている時には自然発火した例がある旨述べているが、本件のもくめんやハトロン紙が油類等によつて汚染されていたと認むべき証拠はない。

三、放火のおそれの有無について。

本件附属倉庫の構造は、既に認定したとおりであつて、しかも平素出入りに使用していた南出入口も、第五回公判における証人佐々木秀征、第六回公判における証人片岡信夫の各証言によれば、盗難防止のため資材の出し入れの都度必ず施錠することになつており、本件火災当日もそうであつたとのことで、現に斉藤正次郎も第一五回公判において出火発見当時右南出入口が施錠されていたことを確認した旨証言しているのである。

従つて、右倉庫は、前記第五に認定した計三回の出入りの場合を除き、全く密室状態にあつたと言わなければならない。

又、倉庫の板囲いの構造も前記第四に認定のとおりであつたから、同倉庫の外部からその内部に出火源となるなんらかの物件を投入し、発火の原因を作り出すことも不可能であつたと認めざるを得ない。

いずれにせよ、本件火災が部内者或いは部外者らによる放火に基因したものと認めるべき節は全く存しないと思われる。

当法廷における被告人の供述、或いは、証人佐々木秀征の第五回第二〇回各公判における供述によれば、出火当日の正午前後頃、大電工詰所南側附近で遊んでいた子供達が数人いたこと、又、証人長崎邦夫の第一二回公判における供述によれば、昭和三五年七月末頃、大電工詰所西隣の空室入口附近に積んであつた古書類から火が出たことがあつたが大事に至らず消し止めたとのことであるが、これらが本件出火となんらかの関連性あるものと推認せしめるに足る証拠は存しない。

四、飛火の有無について。

辻本静正外一名作成の鑑定書添付の高松地方気象台作成毎時観測報告によれば、本件火災当日午前九時より午後一時までの間の風速は秒速三米以下で概ね西よりの風であつたことが明らかであるから、数十米も離れた地点からの飛火があつたとは先づ考えられず、精々倉庫の北側線路を通過した蒸気機関車の石炭火の飛散が考えられる程度であるが、これとても高松駅予備助役上野健一の司法警察員に対する供述調書によればたやすくこれを肯定することはできず、他に飛火を裏付ける決定的証拠は存しない。

国鉄四国支社総務部法務課長朝日重雄作成の機関車の散火による沿線火災の発生状況調についてと題する書面によると、機関車の散火による沿線民家、山林の火災発生例が少なからぬことがうかがわれるけれども、これとて本件出火が同種事例であるとする根拠とはなしえない。

五、以上出火の際に考慮される種々の類型的原因につき、逐一詳細にその証拠を検討したが、結局そのような原因の存在を肯定する証拠はもとより、その疑いを抱くに足るような証拠も認められず、これら検討の結果は自らすべて当日の本件倉庫えの出入り関係者に嫌疑をむけざるを得ない。

そして、これら関係者の出入り状況は、既に第五、において認定したとおりであるが、そのうち午前九時過頃、被告人及び新生電業関係者が出入りした機会において同人らがなんらかの出火原因を倉庫内に残したと考えられないことは、数時間経過した午後に被告人らが出入りして格別の異常を認めていないことよりして明白であり、これを疑わせる証拠は存しないので、右のうち新生電業関係者は先づ考慮の外において差しつかえないであろう。

残るは被告人、片岡信夫、佐々木秀征の三人が倉庫内に立入つた機会に、何んらかの発火材料を倉庫内に残留したのではなからうか、ということになる。

第七、出火原因その二。

検察官は、右の三人のうち被告人が、着火した煙草を手に倉庫内に入り、これを床上に散乱したもくめん上に不注意に投棄し、片岡信夫がもくめんと共に木箱内に収納したため、その煙草の火が木箱内でもくめんに延焼し、遂に本件の出火を見るに至つたとしている。

一、着火した煙草の吸いがらがもくめんに包まれた場合、果して右煙草の火がもくめんに引火しこれを燃焼させる科学的可能性があるか。

これに関する証拠としては、捜査段階においてなされた辻本静正外一名作成の鑑定書(警察鑑定と略称する。)、当裁判所が命じた鑑定人安村二郎作成の鑑定書(徳大鑑定と略称する。)及び鑑定人松田住雄作成の鑑定書(阪大鑑定と略称する。)並びに右阪大鑑定における実験経過とその結果につき検証した当裁判所の検証調書、第一三回公判調書中の証人安村二郎の証言があるが、このうち徳大鑑定はその科学的可能性を否定し、阪大鑑定はそれを肯定しているので、そのいずれに拠るべきかを検討すると、先づ徳大鑑定はその実験方法において(イ)木箱内に約五〇〇グラムのもくめんを入れ、その上にハトロン紙をもつて覆い、全長の約三分の一を喫つた煙草「みどり」を火のついたままその真中に置き、その上に更に約五〇〇グラムのもくめんをもつて覆い、これを木箱の上縁から約一〇センチ下方まで圧縮して二五分間放置するという方法を二五回、(ロ)木箱の中に約五〇〇グラムのもくめんを入れ、前同ようの煙草をその上に置き、約五〇〇グラムのもくめんをその上に重ね、更にハトロン紙をもつてその上を覆つて木箱の上縁から約一〇センチ下方まで圧縮して二五分間放置するという方法を二〇回、それぞれ実施して、引火発焔の有無を験したもので、その回数においては四五回に及んでいるとはいえ、ただハトロン紙の位置を異にする二方法の実験を反覆したにすぎないものである。

これに対し阪大鑑定にあつては(イ)煙草の吸いがらは全長の三分の一のもの或いは二分の一のものを使用し、(ロ)木箱内における吸いがらの位置を上方、中間、下方と場所を異にして試み、(ハ)木箱内のもくめん中に吸いがらを置いた場合のみならず、床上に拡げたもくめん中に吸いがらを混入してから木箱内に収納する場合についても試み、(ニ)もくめんで吸いがらを包む場合の包容圧も強弱いろいろに変えて試み、(ホ)蓋の有無による影響についても実験している外、更に(ヘ)煙草の燃焼時間やもくめん自体の着火温度附近の変化を観察して鑑定のための実験結果を検討する等、多様な実験を慎重な化学的検討によつて裏づけていることがうかがえるのである。

右のように両鑑定の実験方法を比較した場合、阪大鑑定をより科学的に価値高いものとして採るべきものであること明らかであらう。そして右阪大鑑定によると、煙草「みどり」の吸いがらの完全に燃えるまでの火持時間、及びその吸いがらの温度が約七八〇度Cでありかつもくめんの着火温度が約四〇〇度C以下である事実より見て、その時の条件(吸いがらともくめん及び新鮮な空気との接触いかん、もくめんの乾燥度など)によつては、もくめんに着火する可能性を認めざるを得ないとしているのであつて、警察鑑定も実験方法の詳細な記述はないが結論としては、常温(三〇度C)程度において、もくめんに着火した煙草を混入した場合、もくめんに引火するとしてその可能性を肯定しているのであり、ほぼ阪大鑑定とその軌を一にしているものと言えよう。ただ、当裁判所の検証調書によると、阪大鑑定における実験経過とその結果とを検証した際に行なわれた六回の実験においては、すべてもくめんに引火燃焼することなく終つたけれども、その実験例をも考察対象として阪大鑑定がなされているので、当裁判所の検証調書も右阪大鑑定の結果を左右するに足りないであらう。

このように検討してみると、着火した煙草の吸いがらがもくめん中に包まれた場合、右煙草の火がもくめんに引火しこれを燃焼させることは、常識的、直感的に予想されるほどには容易かつ自明ではないけれども、一定の条件即ちもくめんの乾燥度、新鮮な空気との接触いかん等によつては、十分に可能であると言わなければなるまい。

二、佐々木秀征の供述の検討。

大電工詰所職員佐々木秀征は、前記第五のとおり、新高松駅からセレン整流器(木箱入り)を持ち帰り、その旨を事務室にいた被告人に報告した際、被告人が火のついた煙草を手にしていたと供述し、検察官は、その煙草が不用意にも被告人によつてセレン整流器を取り出す折に床上に散乱していたもくめん中に投棄された、としているので、以下右佐々木の供述を検討する。

同人は、第五回公判において「当日ラジオの正午の時報を聞いてから駅前にある床屋にえりそりに行つて一二時二〇分頃帰り、一〇分か一五分位かけて昼食を摂り、しばらく休憩してから一二時四〇分頃荷物をとりに新高松駅小荷物扱所え出かけた。その時被告人は昼休みで別に仕事はしていなかつた。荷物を積んで帰り、大電工詰所事務室と附属倉庫との間の通路に単車を止め、被告人に荷物が着いたことを知らせた。そのとき被告人は椅子を二、三脚並べた上に頭を南にして寝ていたように思う。二、三度呼ぶと被告人は気がついたのか起き上つて椅子に腰かけたような姿勢になつた。そのとき、被告人は右手に煙草を持つていたように思う。煙草の長さがどの位だつたか覚えていないが、火はついていたように思う。私は片岡が倉庫の鍵を持つて出て来たので同人と共に車を倉庫内に入れ、積んで来た木箱を降ろし、単車を事務室の表(南側)にまわして、車の調子が悪いのでしばらくその車を調べたのち、窓から事務室に入つて室内を通り抜け倉庫に行つた。その折、事務室の電気時計を見たが、時刻は一二時五〇分から午後一時の間であつたと思う。事務室や倉庫に被告人がいたかどうか記憶しないが、倉庫には片岡がいて、既に木箱の蓋を明けていたので、手伝つて詰合せ材料のもくめんを木箱周囲の床上に取り除き、セレン整流器を取り出していると、被告人が脇に来て「五アンペアの整流器かな」というようなことを言つたので、その時初めて被告人が倉庫に入つて来ているのを知つた。それで持つて帰つていた手紙を同人に渡したが、そのとき被告人が煙草を持つていたかどうかわからない。取り出して整流器を東北隅の棚に片づけようとしていると、被告人が来て左側から押し上げてくれた。その時にも被告人が煙草を持つていたかどうかわからない。それから空箱の所に戻つたら、片岡が既に散らばつていたもくめんをその箱に詰めており、自分はその木箱を西南隅の一〇個位の空木箱を二段に重ね並べてあつたその上に置いた。箱を片附けているとき被告人は既に倉庫にいなかつたが、いつ出て行つたか覚えない。箱を片附けてから自分が先に続いてすぐ片岡が倉庫を出て事務室に帰つた。倉庫を出たのは午後一時過だつたと思う。事務室に帰ると片岡は被告人から物品整理カードを整流器のところに取りつけてくるように言われ、もう一度片岡が倉庫に行き、五分位して出て来た。それから自分は被告人に言われて手紙を出しに行つた。被告人を呼び起こしてから、木箱の片附けが終るまで一〇分か一五分位かかつたと思う。自分と片岡とは煙草を喫わないが、被告人は日頃喫つており、量は一日に二、三本程度でないかと思う。」旨証言し、第一四回公判、第二〇回公判においても又、昭和三五年八月二三日付検察官に対する供述調書、同月二一日付司法警察員に対する供述調書(弾劾証拠)においても、ほぼ同旨の供述をしているのである。

一方、片岡信夫は、第六回公判において、「当日正午過に自席で食事を摂りはじめ、半分位たべた頃、佐々木が散髪から帰り、同人は食事をして又出かけたが、自分はそのまま事務室にいた。一二時三〇分頃か四〇分頃に佐々木が単車に荷物を積んで大電工詰所北側の附属倉庫の前に帰つて来た。そのとき、被告人は長崎助役の机の所で椅子を二、三脚並べて頭を南にして寝ていたようだつた。そして佐々木から何か鍵を開けてくれとか言われたように思うが、自分は鍵を持つて行き倉庫の戸を開け、中に入つて荷物を降し、佐々木は単車を倉庫から出し、自分はペンチとドライバーを取りに事務室に戻つたが、ドライバーが見当らないので、事務室南側に単車を止めていじつていたようだつた佐々木に尋ねた。その時、被告人は元の位置で椅子の上に横になつていたのではないかと思う。自分はペンチとドライバーを手に倉庫に行くと、倉庫内には誰もおらず、ペンチで縄を切りドライバーを蓋の隙間に手で叩きこみこじて五枚位あつた蓋の板を全部取り除き、詰めてあつたもくめんを取り出し、在中の整流器が動かないように打ちつけてある桟をはづしていると佐々木が入つて来たので、同人と共にその桟を取りのけて整流器を出したが、その整流器を出す頃に被告人が自分の傍から「大きい整流器やな」と言つたので、同人が倉庫に来ていることに気づいたが、いつ入つて来たかは知らないし、その時被告人が煙草を手に持つていたかどうか覚えがない。佐々木はそこで被告人に封筒を渡していたように思う。整流器は、佐々木が棚の上に持つて行き、自分は散らばつていたもくめんを箱につめたら、佐々木が西南隅の一二、三個位の空木箱を二段に重ねて並べてあつたその上に置いた。その頃被告人は倉庫におらず、佐々木、続いて自分が殆んど同時に倉庫を出て事務室に戻つたが、その時刻は午後一時頃かと思う。部屋に帰つて一、二分して被告人からカードを整流器の上につって来てくれといわれ又倉庫に入り、二、三分で用事をすませて又事務室に戻ると、被告人は食事に出かけ、佐々木は手紙を出しに出かけた。自分は部屋で図面の訂正の仕事をしていると斎藤が、倉庫の中が燃えているらしい、鍵がかかつているから開けてくれ、と言つて来たので、あわてて開けに行き、入つて見ると倉庫内の空木箱の辺が盛んに燃えていた。佐々木が手紙を出しに出かけてから斎藤が来るまで一五分から二〇分位たつていたと思う。被告人が椅子の上に寝ていた時、煙草を喫つていたかどうか記憶しない。佐々木が倉庫から単車を押して出て行き、再び倉庫に入つて来て木箱中の桟をはづすまでの間、一二、三分かかつたかと思うが正確な自信はない。自分は家では日に二、三本煙草を喫つていたが、外では喫わないので、当日も煙草、マツチは持つていなかつた。佐々木は煙草を喫わないが、被告人は日に何本位かはわからぬが喫つており、当日も自席では喫つていたことがあるように思う」旨証言し、第一九回公判においてもほぼ同旨の供述をしているのである。

これら供述によると、佐々木、片岡両名ともに、被告人を含む三名の職員が、大電工詰所において、火災当日正午過ぎからいかに行動したかについて、概ね一致した供述をしており、そのような行動があつたものと認めて差支えないと思われるが、それによると、佐々木は、荷物の木箱を持ち帰つた折、事務室内で椅子を並べ、その上に横たわつている被告人が右手に火のついた煙草を持つているのを見た、と言うのである。その際の右佐々木の位置は、第二〇回公判での同人の供述によると、「大電工詰所事務室の北側にある空室内で、右空室の北出入口(附属倉庫南出入口とは通路を隔ててほぼ相対している。)から一、二歩位中に入つた地点」であり、被告人の位置は、第一九回公判における片岡信夫の供述と、第二〇回公判における佐々木の供述によると、「事務室西南隅附近に南北に椅子を二、三脚並べ、その上に横になつていた」と認められるのであつて、煙草を持つた右手は、事務室西南隅に近い附近にあつたものと考えられるところ、佐々木の位置から右の煙草を持つた右手までの距離は、大電工詰所とその北側空室とを合わせた南北の距離一二、七四米(証第八号、高松駅信号保安設備変更に伴う助役詰所及倉庫仮設工事図による。)以下であり、約一〇米前後と認められるし、佐々木自身の視力に格別の異常は認められず(佐々木の昭和三五年八月二三日付検察官に対する供述調書中には、視力は両眼とも一、二とある。)、しかも薄暗い北側から明るい南側の部屋の方を見るのであるから、若し被告人が火のついた煙草を持つていたのなら、当然佐々木がこれを認めえたであらう。その中間に佐々木の視線を妨げるものがなかつたと思われることは、第二〇回公判における佐々木の、及び第二一回公判における山名克己の各供述によつて明らかである。

他方、その時刻が何時頃であつたかについては、前記佐々木の供述中に現われている同人が電気時計を見たときの時刻、右時刻から倉庫に赴き、倉庫内での作業を終つて退出するまでの所要時間、それに加えて斉藤正次郎が昭和三五年八月二〇日司法警察員の取調べを受けた際以来、検察官に対し、又第一五回公判においても、一貫して「貨物室から新高松駅助役室に行くため大電工附属倉庫南側を通つた際、いつ通つても閉まつていた倉庫の南出入口が半間位開いていた」旨述べていて、その供述の真実性を疑うべきものはなく、従つて当日午後一時一〇分頃右倉庫の南出入口が開いていたものと認められ、右時刻には恐らく倉庫内において片岡がカードを整流器の上につるす作業をしていたのであらうと認められること、等の諸点と、前記佐々木、片岡の各供述を総合すれば、佐々木が大電工詰所に荷物を持ち帰つた時刻は、午前一二時四〇分頃ないし五〇分頃であつたと認めるのが相当である。

では右時刻、場所において、被告人が右手に火のついた煙草を持つているのを見た、という佐々木の供述は、全面的に措信しうるであらうか。この点こそ被告人の刑責を問うについて重大な関連を持つ事項であるから、更に慎重に判断しなければならない。

即ち、既に述べたとおり、火のついた煙草を見た者は、佐々木ただ一人が一回だけであり、被告人と同室していた片岡自身は、佐々木に呼ばれて鍵を持つて部屋を出た時、又ドライバーを取りに引き返えし、室内を探したが見当らず佐々木に尋ねさえしたのであるがその間においても、被告人が火のついた煙草を持つているのを全く見かけた記憶がなく、倉庫内においては佐々木、片岡ともに全くそれを認めていないし、結局その煙草がどう処置されたかについては勿論不明なのである。又、第二〇回公判での佐々木の供述によると、同人は消火作業等に協力したのち、八月二〇日午後四時頃警察に呼ばれ、それから翌二一日午前四時頃まで調べられ、その帰る直前頃調書ができたとのことであるが、予測もしなかつた大火の中を、消火、物品搬出等の作業に従事し、かなり疲労していたと思われる同人が、右のような一回限りの、しかもその認めた時に被告人か又は他の何人かとその現認事実につき会話したとかの格別のことが有つたならばともかく、そのようなことも無かつたのであるから通常一般にはむしろ決して強く記憶に残るような経験事実とは到底考えられないことがらを、果して良く記憶していたであらうか。むしろ、通常の場合は、後刻想起しようとしても果してどうであつたか想い起せない程、又、仮りに想い起したとしても、極めて漠としか想い起せない程、その時には格別意に留めないような事柄ではないだらうか、と思われないでもない。片岡に全く記憶がないというのは、通常そのような性質のものだからではなからうか。かく考えることは必ずしもけん強付会とも言い難い節あるを認めざるを得ない。加えて、佐々木が取調べを受けた当時、真実右の点についての判然とした記憶が有つたのであれば、その折作成された調書と思われる同人の八月二一日付司法警察員に対する供述調書僅か一二枚、しかも当日のことに関する部分はそのうち八枚に過ぎないものを、作成するのに、何故にそのような長時間を要したのであらうか。それ自体が前述のような疑問を裏づけ、佐々木自身確たる記憶がなかつたためではないだらうかとの疑惑を生むようにも思えるのである。

しかも、午前一二時五〇分頃、煙草には既に火がついており、或る程度短かくなつていたと認められるが、その残りの吸いがらの燃焼時間と、もくめんえ引火し、それを燃焼させるまでの所要時間、前認定の出火時刻をそれぞれ考量検討すると一層疑問を生じるのである。即ち鑑定人松田住雄作成の鑑定書によれば、もくめん中に投入させた煙草からもくめんが燃焼発火する場合は大体二〇分以内に起きると思われるとあつて、いささか前認定の出火時刻に合致しそうにない節があり、さらに右鑑定書によれば、約三分の一程度喫つた煙草「みどり」がもくめん上で燃えつきるに要する時間は約九分、約二分の一程度喫つたものの場合は約六分ということであり、被告人が手に着火した煙草を所持していたのを佐々木が見たことが真実であつたとしても、喫煙の場合煙草に着火した以上特別の事情のない限り数分間も喫わないでそのまま所持していることはないのが通例であると考えられること等を併せ考えると、被告人が大電工附属倉庫に入つたとき、佐々木が見たと言うその煙草をそのまま所持していたかどうかについても疑わしい点があり、本件出火と佐々木の見たと言う被告人所持の煙草との関連については相当の疑問を生ずる。

右のような諸点を斟酌した上で佐々木の前記供述を批判検討すると、その供述に全幅の信頼を寄せ、全面的にこれを受容することは、十分に警戒しなければならない。佐々木の供述の証明力については、被告人の供述についての検討の結果を待つて再考すべきものであらうと考える。

第八、出火原因その二(続き)。

かくして、自白ないし自認を内容とする被告人の捜査段階における供述調書を検討すべきこととなるのであるが、先づその任意性を検討する。

一、被告人の供述調書の任意性の有無。

1、昭和三五年八月二一日付司法警察員奥田重雄警部補に対する供述調書について。

弁護人は、右調書の作成日付は八月二一日となつているが、被告人は事件当日の八月二〇日午後五時頃高松警察署に出頭を命ぜられ、令状もなく留め置かれて翌二一日午前五時頃まで夜を徹して、しかも数人の警察官から入り替わり立ち替わり取調べを受け、精神的にも肉体的にも疲労困ぱいの末自供させられたものであるから任意性がない旨主張している。そこで右供述調書が作成された経過を見ると、被告人は第二二回公判において概ね次のように述べている。即ち、「八月二〇日午後六時前頃、火災現場を視察に来た上司に現場説明などをして新生電業に帰つておると、高松署から呼びに来て同署に出頭した。最初は取調室で種々雑談していたが、そのうち部屋を替わりそこで徐々に当日の経過を聞いて行かれた。取調べが進むにつれて、一日に煙草を何本位喫うかとか、お前が煙草を喫うているのを見た者がいるとか、寝ころんで喫つていたんだらうとか、聞かれた。意外だつたし、記憶が全然ないので、その旨答えて、一度その人に会わせてくれと言つた。その間の取調べには奥田警部補が机をはさんで正面に坐り、私の周囲には四人位の警官がいて、色々周囲から問いかけて来た。奥田警部補は終始替わらなかつたが、他の人は時々入れ替わつた。そして六、七時間も片岡が言つているぞとか、佐々木が言つているぞとか言われ、追及的な取調べを受けたが、その間全く休息を与えられず、私が記憶がないと答えていると、何時になつたら本当のことが言えるのだ、と五〇センチ長位のセルロイド製物指しで机をたたいたりされた。夜一二時頃になつてようやく夕食を与えられたが、私は当日夕食をとつていなかつたけれども胸が一杯でたべる元気もなく全然たべなかつた。その頃になつて、君が嘘を言つているかどうか、警察には嘘発見器というものがあるからそれにかけたらすぐわかるんだ、と言われ、私は、それまで疑われているのならやつて下さいと言つてかけてもらつた。それが二一日の午前一時頃だつたと思う。二、三〇分かかつてテストを終り又調室に帰ると、調官にはそのテスト結果がわかつたのか、今度は、今まで貴様が言つていることはでたらめばかりでないか全部嘘でないか、とか、現在私は重過失失火で起訴されているが、当時は単なる失火容疑で、私が何も言つていないのに調官は失火ぐらい何じや、罰金五〇〇円位払つたらええんじやないかとか、佐々木や片岡が君が煙草を喫つていると言つているがお前は喫つていないと嘘ばかり言つているじやないか、とか追及され、それが帰される午前五時頃まで続いた。私は、終り頃には訳が分からなくなつて頭を机にもたれさせてもうろうとした状況だつた。嘘発見器にかけられた後も、私は取調べに対し覚えがないと反発していたが、調書を作られる頃はその気力も勇気もなくなり、書かれてあることについて別に何も言わず署名した。結局突つ張り切れずに片岡や佐々木の言つていることを認めたようになつていたと思う。一旦帰されたが、私は半分認めたような調書になつているような気がしたので、若しそうだとすると身に覚えがないからその点をはつきりしてもらおうと思つて二一日午前一一時頃又同署に出頭し、訂正して欲しいと申し出たが取りあつてくれなかつた。」と述べているのである。

右の点に関し、当時毎日新聞高松支局記者として、司法警察関係を担当し、本件火災の取材に当つた種村直樹は、第一八回公判において次のように証言している。即ち、

「八月二〇日夕方から高松署に詰めて取材に当つていた。そして被告人が任意出頭を求められ、調べを受けていることがわかつていたので、その終るのを待つていた。翌二一日午前三時頃と思うが、当局から、被告人が自供した、倉庫内に煙草を捨てたような気がするという程度の供述をした、と発表された。午前五時過頃、調を終つて出てくる被告人を同署正門玄関前で待ち受け取材しようとしたが、彼は顔をかくして、出迎えの国鉄関係者らしい人と共に足早やに立ち去らうとしたので、二、三〇米追つて行き、警察からの発表があつたがあなたは本当に煙草を倉庫の中で喫つていたのか、と聞いたら、小さい声だつたが、信じて下さい、わたしは決して煙草なんか喫わなかつた、喫わなかつたことを知つて欲しいために嘘発見器までかけたんだけれども、かえつて悪い結果が出たようだ、だけどいずれにしても自分じやない、というようなことを言つた。その時の被告人は若干興奮しており、疲れたような感じだつた。九月一〇日午後三時頃保釈で出所する被告人を高松刑務所の門前で待ち受け、二人で市内の喫茶店に行つた。警察の調べに対し供述が二転三転しているということだつたのでその点について聞きたかつたからである」と述べ、同所で被告人からほぼ前摘示のような取調状況を語られ、「しきりにひどい調べだつたと訴えられたので、人権擁護部へ訴えれば調べてくれるだらう、と言うと弁護人と相談して決めたいと言つていた」と述べている。

更に取調べに当つた警部補奥田重雄は、第一六回公判において、被告人を取調べた時間が概ね被告人の述べるところと同じであつたことを証言している。

右の事実によると、被告人は、出火直後から夕刻まで出火現場附近の整理などに忙殺されたのち、夕刻から取調べを受けはじめ、夕食も深更に至つてようやく与えられたがたべないままに翌午前五時頃まで夜を徹して調べ続けられ、かなり疲労が激しかつたと認められること、その間、嘘発見器によるテストの結果を告げられ、更に追及的取調を受けたこと、取調を終つた直後に第三者に対し、調官に対する供述が任意のものでないことをうかがわせるような訴えをしていること、がそれぞれ認められるのであつて、これらを総合すれば、右八月二〇日深夜の取調が、被告人にとつて極めて苛酷であつたとまでは言えないとしても、かなり厳しいものであつたことは十分認められるところであり、殊に小心で内気な被告人にとつては尚更であつたと考えられるのである。

勿論、稀に見る大火となつた本件出火の原因を、早期かつ適確に追究しようとした捜査機関が、第一発見者、続いて出火場所の勤務者と、捜査の糸を伸ばして結局被告人に疑の目を向けたことは、一応捜査の常道をふんだものとして格別責められるべきものではないかも知れないが、その熱意の余り人権を無視する結果となるようなことは厳に慎しまねばならないこと当然であつて、事件の規模が極めて大きくその世人に与えた心理的影響が甚だしかつたとか、火災という証拠蒐集の困難な事件であつたとか、いうことは察するに難くはないが、これとてもその手段を合法正当化するものとは考えられない。夜を徹しての取調べについて前掲奥田証人は、被告人の承諾を得た旨証言しており、恐らくはそのようなことが有つたであらうけれども、かかる場合に承諾を求めること自体が取調を受ける者に対しとかく強要的に働くことは見易いことであり、被告人の場合まさにそのように働いていると認められるのであつて、承諾が有つたことの故をもつて人権無視がなかつたとは言えないと考える。

右の次第であるから、取調官側においてことさらそのような取調をしようとの意志を有していたかどうかにかかわりなく、右のような取調は規範的には人権に対する不法不当な圧迫と評価せざるを得ず、事実的側面においても被告人の自由意思を抑圧するに足る事情と認められるのであつて、結局前掲調書はその任意性に疑いありと見るのが相当であるから、犯罪事実認定の証拠からは排除されるべきものである。

尚、奥田証人は前掲証言において、一応の自白は午前零時半頃にあつたこと、新聞記者を避けさせるため西門から帰らせるなどの配慮をしたこと、調書を作る段階で供述を渋つたため長時間を要した結果となつたものであること、嘘発見器を使用したことは全く知らないこと、等を証言しているが、午前三時頃に至つてようやく前掲程度の発表が新聞記者に対しなされていること、午前零時半頃自白したものならば深夜のポリグラフ使用の必要性が全く認められなくなること、西門より帰らせた事実は種村証言よりして認めがたいこと、ポリグラフを使用し、かつその結果が被告人に不利であつたこと、(ポリグラフ使用の事実が有つたことは、第二二回公判における検察官の被告人に対する質問からもそれをうかがうことができる。)その不利な結果となつたことを被告人が知つており、奥田証人から知らされたものと見るのが相当であると思われること、等を考えると、同人の任意性に関する証言は被告人の供述に比してたやすく措信しがたいものがあると認められる。

2、その他の供述調書について。

被告人の八月二一日付供述調書には、右の外に司法警察員井上保一に対するものがあるが、その内容は経歴、家族関係等の身上に関する事項のみであつて、任意性が問題となる余地はない。

被告人は八月二二日逮捕され、同月二五日勾留されたが、逮捕後は、弁解録取書二通、裁判官の勾留質問調書の外に、警部吉田清の取調べた供述調書が、八月二三日付、二四日付(二通)、二六日付、二七日付、二八日付、と計六通あり、続いて検事藤川健の取調べを受け八月三〇日付、九月一日付、二日付、三日付、七日付(二通)、八日付の計七通の供述調書が作成されている。右のうち犯罪事実に直接関係のある自白ないし自認を内容とするものは八月二六日付、二七日付、三〇日付、九月一日付、二日付、三日付、七日付のうちの一通であるが、弁護人はこれら各調書についても任意性がない旨主張し、殊に検察官に対する供述調書は、藤川検事が警察で作られた調書をもとに先入感を抱き、被告人以外には煙草を吸う者はないのだという態度で被告人の弁解は聞き入れようともせず自白を強いたもので任意性がないとするのであるが、第一六回公判における証人藤川健、同吉田清、同大山経市、第一七回公判における証人宮本勇、同十河清志、同宮井清の各証言によれば、右各供述調書につき任意性を疑うに足りる事由は存しないと認められるので、この点に関する弁護人の主張は採用の限りではない。尤も後述する供述内容の真実性についての検討の項において明らかなように、多少の誘導が有つたことが認められるが、これとても右認定を左右するに足りないと考える。

二、供述調書の内容の真実性について。

進んで、自白ないし自認を内容とする前記合計七通の供述調書につき、その供述内容の真実性を検討する。先づこれらの供述を通覧してうかがえることは、被告人が出火前の近接した時期に煙草を喫つた時刻と、その時の状況についての供述の変転が著しい事実である。検察官は、そのような供述の変遷こそ、被告人がその刑責を免れようとはかつた事実を裏書し、終局的に真実の供述をなすに至つたことを物語つているというが、果してそうであらうか。必ずしもそのようには考えられない。

即ち八月二六日付調書において、被告人は「一二時三五分頃から椅子を二つ並べてその上でうとうとしていたら……佐々木が荷物が着いたと言つて起したので……自分の席でトレスの仕事を始め……この最中に煙草が喫いたいなあと思い……山名助役の机の中央においてあつた同人の無色のセルロイドの煙草ケースから新生一本を抜いてライターで火をつけ、喫いながら一、二分トレスをやり、すぐ倉庫に行くと佐々木がセレン整流器を両手に抱えて持ち上げていたので、持つていた煙草をもくめんから一米位北のコンクリート床上に捨ててすぐ佐々木を手伝つた。……午後一時前後頃に新生をのみ始めたのである」と供述したのを、翌二七日付調書において直ちに訂正し「山名助役の新生を喫つたのは八月二〇日の午前一〇時頃であつた」と八月二三日付調書に復した上、「八月一七、八日頃みどりを買つて持つていた、八月二〇日午後一時少し過ぎていた頃昼寝を止めて自席でトレスを始めてから煙草がのみたくなり机の上にあつたそのみどりから一本抜いて助役のライターで火をつけ、それから一、二分煙草をのみながらトレスをして倉庫に行き、……くわえていた煙草をコンクリート床の上に捨てて佐々木を手伝つた」と述べている。しかしこれらはいずれも他の証拠と合致しておらず、その真実性が乏しいのである。

即ち、八月二六日付調書に初めて現われた山名助役の煙草ケースは、被告人の供述を真実とするならば当然本件火災によつて焼失していなければならないにかかわらず、山名克己は八月二七日付司法巡査に対する、同日付検察官に対する各供述調書において、その取調当時現にそれを所持していると述べているからである。取調官としてはこのことを知り直ちに被告人に対しこの点の供述の誤りを指摘し、その結果被告人も同日付調書において前言を飜がえしたものと認められるのである。しかも右二六、七両日付調書とも「椅子から起き上つて自席で煙草に火をつけた」と述べているが、これは、佐々木秀征の八月二三日付検察官に対する供述調書更にそれより早く同人が八月二一日付司法警察員に対する供述調書において述べている「火の着いた煙草を手に持つて椅子の上に横になつていた被告人を見た」旨の供述と合致していないからである。

右の点について被告人は第二二回公判において「出火当日煙草を喫つたかどうかはもとより、持つていたかどうかさえ記憶がおぼろだつたし、寝ていて煙草を喫つた記憶もなかつたので、そう答えたが聞き入れてくれないので、いつも山名さんがセルロイドケースに入れた新生を持つていたのを思い出し、それから一本もらつて喫つたといい、又寝ていて喫つてないのなら起き上つてトレスしているときに喫つたのに違いなかろうと追及されて結局そのような供述調書ができたのだが、その後調官から山名はケースを今でも持つているではないかと言われ結局山名の煙草をもらつて喫つた時刻は、もつと早い午前一〇時頃ということにされてしまつた」と述べているのである。

ところで、検察官の取調べを受けるようになつてからは、先づ八月三〇日付調書において「一二時四〇分頃ラジオのスイツチを切り、椅子を並べてその上に横になつたが、その直前机上のみどりの箱から一本抜いて火をつけ、喫いながら横になつた、それから五分か一〇分位うとうとしていたら佐々木に呼ばれて起き上つた、それから、四、五分位かかつて少し残つていたトレスを仕上げ、倉庫に行つた。倉庫に入る時もその煙草を左手に持つたまま入つたような記憶があるが、それから先どう処分したかはつきりした記憶がない。二〇日に警察に呼ばれて調べられ翌朝五時頃帰されて新聞を見ると火災の原因は私が倉庫内で捨てた煙草の火によるものだと大きく出ていたのですつかり恐ろしくなり二一日警察に出頭した時は、二〇日の日は煙草を喫わなかつたと嘘を言つたが、真実は今申したことが正しいのである」と述べ、従前警察で否認をした理由をいかにももつともらしく述べて、右調書における供述こそ真実である旨を強調しているけれども、その否認理由として述べているところに既に疑問があるのである。即ち、前掲種村記者の証言によると「二一日午前三時頃に、被告人が自白した、旨の発表があつた」とのことであり、仮に奥田警部補の証言のように「午前零時半頃自白した」としても、当地方に発行配布されている朝刊各紙の予想される原稿締切時間とにらみ合わせてみれば、到底二一日の朝刊に右のような記事が登載されたとは考えがたいものがあるように思われるからである。この点はともかくとしても、右調書及び「椅子に横になる直前に煙草に火をつけた」ことを再確認している九月一日付調書によれば、既に指摘した佐々木秀征の供述する目撃状況との不合致は消滅しているが、代つて煙草の火持時間との不合致という問題が登場して来た。即ち八月三〇日付調書のような経過とすれば、煙草に火をつけてから九分ないし一五分後に倉庫に入つたこととなり煙草はほぼ喫い尽くされてしまうか、燃え尽きてしまうことになりかねないからである。

果して検察官は九月二日付調書においてこの点を問い「一二時四〇分頃と思われる頃ラジオのスイツチを切り、それから煙草に火をつけたのだから、その時刻が正確に何時何分であつたか見当がつかない。一二時半から一時までの間の時間であつたことは間違いないが、それ以上の正確な時間はわからない。私としてはできるだけ出火時間よりも遠い時期に喫つたことにしたいという気があつた。椅子の上に横になつていた時間も、長い短かいがちよつと見当がつかず、或いは五分以下であつたかも知れない」との供述を得ているのである。かくして佐々木秀征の目撃状況にも合致し、かつ煙草の火持ち時間との矛盾も解消せしめられ、佐々木の見たという煙草の火が本件出火に結びついて行く連関が完成し、その後の九月三日付、七日付各調書において、その細部の再確認がなされているのであるけれども、これらの各供述は果して被告人がその記憶に従い真実を供述したものであるか、多大の疑問なしとしない。

即ち、正午過頃煙草に火をつけ、その煙草をどう処置したかを、予期せざる大火を経て警察の取調べが開始された当時において、又その後引続き果して確然と記憶しているものであらうか、との素朴な疑問が吾人の経験に照らし打ち消し難い力を持つているように思えるからであり、この点は、その際「椅子を二つ並べてその上に横になつた」という特異な、しかも煙草と結びつきやすいと思われる動作と結びついて、判然と記憶に残る場合もあらうから、その疑問にこだわることは避けるべきであるとしても、右にくわしく被告人の供述の変遷を追跡した結果からうかがえるように、被告人はむしろ判然記憶にないからこそ否認したのであるが、目撃者がいるとか、他に煙草を喫う者がいないとかの事実を根拠に追究され、遂には記憶がないままにかつ、調官の意のままに、変転する供述をせざるを得なくなつたのではないかと疑われる節の存することは否めないものがある。右のような供述をなすに至つた事情につき説明した第二二回公判での被告人の供述は、前記供述調書の検討結果に合致するものがあり、当裁判所においても右公判での被告人の供述するところを十分首肯できると認める。

結局被告人の供述調書については、その供述内容の真実性に疑いがあると言うべく、直ちに採つて断罪の資料とはなしがたいといわなければならない。

第九、結論

既に明らかなように、本件出火と被告人とを関連づける直接の証拠は、佐々木秀征の供述あるのみで、しかもそれとても事務室内における状況であつて、既に第七二末尾に記述したとおりその目撃時からの経過時間等を考慮したとき、果して佐々木は着火した煙草の火を見たかどうか、又その見た煙草の火が本件出火の原因となつたかどうかにつき疑問なしとしない供述であつて、この点の疑問がぬぐい去られない限り、他の幾多の間接証拠を総合してもなお被告人を有罪とするには足りないものがあると認めざるを得ない。

以上の次第で、当裁判所としては、或いは被告人の喫つた煙草の火の不始末のため本件出火に至つたのではなかろうか、との疑問はあるが、なお、十分な確信を抱くことはできなかつた。よつて、本件については、その証明が十分でないから刑事訴訟法第三三六条によつて無罪の言渡をすべきものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 戸田勝 惣脇春雄 谷口貞)

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